突然ですが、私はポッドキャストが好きです。通勤中も、家事をしながらも、とにかく何かを耳に入れていないと落ち着かないタイプです。
先日、いつものようにポッドキャストを聞いていたら、別の番組のCMが流れてきました。
カナダに住むユダヤ人として、差別について考えるというテーマのポッドキャストでした。ちょうどガザ地区のニュースを見たばかりだったこともあり、興味を持って聞いてみました。
そこから気づいたら1時間以上、聞き続けていました。聞き終わった後、しばらく考え込んでしまいました。
今日はそのことを書こうと思います。少し長くなりますが、お付き合いください。
カナダで起きていた「戦争に無関係な人たち」への迫害
そのポッドキャストには、ユダヤ人というだけで差別を受けた経験を持つさまざまな人たちがインタビューに答えていました。
カナダの小学校に通っていた女の子が、家族がユダヤ人というだけで同級生からいじめられ、精神的に追い詰められて学校に行けなくなってしまったエピソード。学校で働いていた先生が、生徒や保護者から嫌がらせや苦情を受け続け、退職を余儀なくされた話。
彼らが曰く、イスラエルとパレスチナの紛争を背景に「フリー・パレスチナ」を掲げる人たちから、心ない言葉をぶつけられているということでした。パレスチナの子供たちを傷つけているのは彼らではないのに、「すべてのユダヤ人は死ぬべきだ」とまで言われることがある、と。
実際に「フリー・パレスチナ」を訴える子供達に至っては、その意味を深く理解もせず、大人やメディアからの受け売りで差別をしているようでした。
私自身も、今ガザで起きていることには深く心を痛めています。罪のない人たちに、一日も早く平和が訪れることを祈っています。イスラエルという国の行為に賛同しているわけでは全くありません。
ただ、ここで少し立ち止まって考えてほしいことがあります。
実は、北米に暮らすユダヤ人の中には、イスラエルの建国そのものや現在の政策に反対している人たちも多くいます。イスラエルの解体を訴えるデモに参加しているユダヤ人も少なくありません。つまり、「ユダヤ人=イスラエルの支持者」という前提からして、すでに間違っているのです。
実際に、インタビュー記事等を見てみると、ユダヤ人の中でも派閥がたくさんあり、北米に暮らすユダヤ人の多くの人がイスラエル人は全く別のコニュニティの人たちだと考えているようです。
それでも「すべてのユダヤ人が悪い」という論理で、カナダやアメリカで普通に生活しているユダヤ人の子供が学校でいじめられ、先生が職を失う。どう考えてもおかしい話です。遠い地で苦しんでいる人たちへの思いやりを持てるなら、なぜ身近にいる関係のない人を傷つけることができるのか。その矛盾に、差別をしている側は気づいていないのでしょうか。
コロナ禍のアジア人ヘイト——私の身近でも起きていた
似たようなことを、コロナ禍でも目の当たりにしました。
当時の職場の同僚が、通勤途中に見知らぬ男性から突然顔面を肘打ちされ、顔に大きなあざができてしまいました。アジア人であるというだけで、街中で攻撃される——そういったことがコロナ禍には各地で起きていました。
私もアジア人なので、正直なところ他人事ではありませんでした。一時期は外を歩くのが少し怖かったし、知らない人に絡まれたらどうしようと考えたこともあります。バンクーバーは比較的アジア人が多い街ですが、それでも緊張する場面はありました。(物騒な話ですが、これが現実でした。)
背景のひとつとして、「中国の研究所でコロナウイルスが人工的に作られた」という真偽不明の噂が広まったことがあります。それが火種となり、アジア人全体への憎しみに変換されてしまいました。
でも少し考えれば分かることです。攻撃された側のアジア人たちも、同じようにコロナに苦しめられ、家族や友人を失ってきた人たちです。そもそも、たとえ噂が本当だったとしても、それはその国の一部の人間がやったことであって、アジア人全員の責任ではありません。「日本人全員が寿司を毎日食べているわけではない」のと同じ話です。(私は寿司は特別なイベントのとき以外食べません。)
それでも「アジア人すべてが悪い」という論理が生まれ、暴力につながっていく。本当に悲しいことだと思います。
「外国人」という一括りの怖さ
もう少し身近な話をすると、日本を訪れる観光客がルールを守らず問題が起きているというニュースを、最近よく目にします。確かにそういったケースはあるかもしれません。
ですが、だからといって観光客に嫌がらせをする、失礼な態度を取る、「外国人は国に帰れ」といった書き込みをする——そういった行動は全くおかしいと思います。
世界人口は現在80億人を超えています。そのうち日本人は約1億2千万人。残りの70億人近くを「外国人」という一言でひとまとめにして、その一部の行動をもって全員を批判するのは、あまりに乱暴な話です。
少し視野を広げてみると、世界のどこかの「外国人」が作った薬を飲んで病気が治り、「外国人」が設計したスマートフォンを使い、「外国人」が書いたソフトウェアで仕事をしている——私たちの日常は、すでにそういう人たちで支えられています。「外国人はいらない」と言いながら、実は毎日お世話になっているわけです。
誰もがそれぞれの生活を必死に送っているだけです。観光地でちょっと迷惑な行動をした一人の人と、その人が持つ国籍の全員を、同じものとして見るのはやめませんか、と思うのです。
「悪者を作る」ことへの衝動——私たちはアリではないはずなのに
何かネガティブなことが起きたとき、人はどうして誰かを「悪者」にしようとするのでしょうか。
以前、「スピリチュアル「わたし」の謎」という本を読んだとき、こんな内容が印象に残りました。人間はアリに似た部分があり、アリが別の集団と必ず対立するように、人間の争いも同じ生存本能から来ているのかもしれない、という考え方です。「自分たちの集団を守るために、外の集団を排除する」という行動パターンは、生き物として長い時間をかけて刷り込まれてきたものなのかもしれません。
なるほど、とは思いました。ただ私たちはアリではありません。
複雑な脳を持ち、相手の立場を想像し、状況を多角的に考えられる生き物として進化してきたはずです。「あの集団が怪しい、だから攻撃する」という本能的な反応を、理性でアップデートできるのが人間の強みのはずです。なのにどうして、いまだにその本能に引っ張られてしまうのか。
差別をしている人の多くは、自分が差別をしているとは思っていないと思います。ただ自分の正義感に従って行動しているだけだと感じているのかもしれません。
でも、リスペクトを忘れて誰かを攻撃することは、必ず誰かを傷つけています。正義感でやっているから許されるわけではないし、むしろ「自分は正しい」という確信を持っている分、始末に負えないとすら思います。
個人として見ること——80億人それぞれの話
世界中のどこに住んでいても、どんな国籍であっても、どんな宗教を持っていても、人はそれぞれ自分の生活をただ必死に生きています。私もそうです。これを読んでいるあなたもきっとそうです。
誰も、生まれる場所や民族を選ぶことはできません。ユダヤ人として生まれた人も、アジア人として生まれた人も、ただ自分に与えられた人生を歩んできただけです。その人に向かって「お前たちは死ぬべきだ」と言えてしまう感覚が、私にはまったく理解できません。
私たちはみな、社会の中で互いに支え合いながら生きています。一人で生きていける人など、どこにもいません。誰かが作った野菜を食べ、誰かが建てた家に住み、誰かが整備した道を歩く。そういう意味では、私たちは全員がお互いにお世話になっている関係です。その「誰か」を、国籍や民族でひとまとめにして批判することは、回り回って自分たちの首を締めることにもなると思うのです。
だからこそ、どんな相手に対しても、まず「個人」として見ることを忘れてはいけないと思っています。
子供の頃にはピンとこなかった言葉が、今は刺さる
子供の頃、学校で「差別はいけない」と習いました。その時は正直、あまりピンと来ませんでした。
差別って何?という感じで、教科書の言葉として頭に入れていただけだったと思います。きっと学校という狭いコミュニティの中で、ただ友人たちと分け隔てなく日常を過ごしていたのだと思います。
でも今は、差別によって本当に苦しんでいる人たちの声を、いろんな場所で聞くようになりました。ポッドキャストで、ニュースで、身近な出来事で。だからこそ今、子供の頃には感じなかった温度で、差別というものを憎んでいます。
自分が差別をしているかもしれないと、いちいち立ち止まって考える習慣を持つことは、正直少し面倒くさいことかもしれません。でも、その少しの面倒を惜しんだ先に、傷つく誰かがいるとしたら、その面倒は惜しむべきではないと思うのです。
そういった教育が、もっと広まっていくことを心から願っています。そして私自身も、自分の行動を時々立ち止まって見直していきたいと思っています。


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